例えば自動車を例にして変形イコール悪ではないことを考えて見ましょ
う。新車であったとしても何年も動かしていればボディはへこんだり、傷つ
いたり、塗装は変色します。
内部のエンジンもピストン部が摩耗したり多少の変形が当然起こります。
ましてや20年30年経てば“変形”がでるのは必然です。しかしエンジンは
始動し、動くのにそれほど支障はありません。整備さえすれば、30年40年
十分に乗れるのです。つまり車の外部、内部におこる変形、変色、摩耗は
“許容”できる範囲のもので、車本来機能の“動く”ということに何の支障
もないのです。
それは人体におきかえても十分に言えることで身体の外側の肌は年を
経るに従い潤いを失い、シワができ、シミや変色は当然起こってきます。
身体の体形、姿勢も年齢に応じて変わってきます。身体の内部において
も多少の毛細血管のつまり、脊柱の曲がり、一個一個の椎骨の変形、関
節の変形、内臓の位置や形の異変等50年60年経てば、若い頃と同じと
いう訳には当然いきません。またこうなることが自然です。
動く上に、イノチを存続するために、それが“許容”できる範囲内のもの
であるなら、目に見える変形、異変はすべて悪とは言えないのです。
そればかりか、もう少しイノチの存続という視点で掘りさげて考察すれば、
変形することで何かを守り、痛みを発生させることで、内部の異常を知ら
せる警報サインにもなり、痛みが発生することで身体を横たわらせ、元に
もどすための対応処置とも考えられるのです。
生体における反応、症状は“生きるため”の正への対応となってる点を
けっして見逃してはならないのです。