【記憶からの記述】


第1章 交通事故

 「お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞かないからいけないんでしょ!!!」
わたしはどなられた。麻酔から覚めた体はまだ三歳。
小さな頭に5センチものメスを入れた大手術のあとだった。
 兄達から仲間はずれにされ、泣きながら八幡神社から飛び出した。
走ってきた車にぶつかった。道路一面に血が飛び散った。男の人が車から
降りてきてわたしをのぞきこんだ。ここまでは、はっきり覚えてる。奇跡的に助かった。
意識を取り戻した三歳の女の子はベッドの上で思いっきり母親に怒られていた。
退院後、頭にグルグルに巻きつけられた包帯はしばらくはずされることはなかった。
 「みっともないから離れて歩きなさい。アナタがいけないんでしょ。お兄ちゃんの
いうことをちゃんと聞かなかったんだから。」
回復したあともこのセリフはわたしに繰り返し、浴びせられた。
「あたしがわるいんだ。みんなあたしがわるいんだ。」そう思うしか選択はなかった。
わずか三歳。「大丈夫だった?早く良くなるのよ。」こんなありきたりの言葉さえ、
わたしはもらえなかった。血まみれになった運動靴はなぜか処分されることなく
そのままずっと放置されていた。左頭部の傷跡は今も残っている。

 母はわたしを呼ぶときに、アナタ、という。名前はほとんど呼ばれない。
「It’sと呼ばれた子」という本が昔ベストセラーになり読んでみたが、それ、と似て
いる。アナタも、それ、も同じようなものだ。他人か、物のときに使う。親はふつう、
子を名前で呼ぶ。 
 
 ひとは三歳くらいからの記憶をおとなになっても持っている。まれにそれ以前、
さらには前世の記憶を持つひとがいるという。わたしは不運にも、その、まれに
該当していた。生後10か月くらいからの記憶を持っている。ふつうに、ありえない
子どもだった。母はさぞかしかわいくなかったのだろう。わたしにはほめられた記憶
は何もない。

 兄はわたしとは真逆で子どもらしい子どもだった。賢くいい子だった。
「粉ミルクのモデルみたい!」とみんなから言われるくらいにかわいかった。
「それにひきかえアナタは。。」かわいくなかったのはわたしという人間性だけでなく
容姿、顔までもが、否定された。「かわいいわね、」と母から言われたことは一度も
ない。別にいわれたいとも思わなかった。
わたしはきわめて冷めた目で3歳、5歳、10歳の人間を通過していった。
10歳のときには完璧に他の人間とは異質なわたしが形成されていた。

 逆境で育った者ほど打たれ強くなるという。ひとに優しくなれるという。だから
ひとことでまとめてみると、いまのわたしがこうしてあるのは母のおかげなのである。 
ひとにはそれぞれ歩んできた道のり、歴史がある。言いたくない過去がある。
知られたくない事実がある。言いたくないことは言わなくていい。嘘も、隠し事も
最期まで貫き通せばそれは真実になるからだ。だれもがみな虚構の世界をもって
生きている。それでいいんだと思う。


第2章 気体的存在

 わたしは人間というひとつの固体ではなく気体的存在で育てられた。存在の無視
である。正確に言うと、わたしは物体として明らかに存在こそしていたが、そこには
感情も心も優しさや思いやりも全く存在しなかった。

 子どもは生まれて初めて出会った人間、つまり親に全幅の信頼をよせて育つ。
その親が信頼できないと察知したとき子どもは学習する。この人に何を言っても
無駄だと認識する。そして何も言わなくなる。話さなくなる。誰も信じなくなる。
わたしは10歳位から笑わない子、無表情な子のレッテルをはられた。

 小学5年生のときに担任から親が呼び出される。
「笑うように御家庭でも指導してください」。わたしはますます笑わなくなった。
畳3畳の部屋に鍵をかけ、トイレとお風呂以外は部屋から出ることはなかった。
 わたしにとってラジオがすべてだった。ラジオのDJが友達だった。

 中学1年。担任から精神病ではないかと言われ病院へいくように、個人面談で
母が勧告を受けた。わたしは病気なんかじゃなかった。ただ生きる意味を完全に
失っていた。「ひとはなぜ生きるのか。なんのために生きているのだろう。」
13歳のノートにはこう綴られていた。心はいつまでも、成仏できない死者のように
浮遊していた。わたしはただ、死んだように、毎日を生きていた。

 15歳、中学卒業文集より。
「ときが過ぎていく。わたしになんのことわりもなしに。〜中略〜どうってことない。
ときがわたしをおいてきぼりにしただけだ。もうときなんか追わない。」
 食べることが何よりも苦痛だった。拒食症、摂食障害。極度の貧血で生理はまと
もにこなかった。心というよりも体が生きることを完全に放棄していた。
 高校卒業と共に家を出た。「釈放。すべてが終わった」8年間書きためたノートの
最後には「18歳。釈放のとき」こう記されていた。

「愛の反対は憎しみではなく、無視である」という。親に感情も個性も人格も否定され
無視されて生きてきた子は、自分の存在価値を失う。生きる意味が見い出だせな
くなる。生きていること、それ自体が空(くう)に思えてくる。空しい、ただひたすらむ
なしい。
 18才、絶望のみ。希望は何もなかった。命を絶つひとの気持ちが痛いほどわ
かった。 
 

第3章 いぼがえる

 「あそこにおばけがいるぞ。見に行こう、」ひいちゃんは男の子に囲まれ、
「おばけおばけ」と、またからかわれていた。「やめなよ!」わたしは強い口調で
言った。「もういいよ」ひいちゃんがわたしに言った。
「よくないょ、ひぃちゃんにあやまれ!あやまれ!」わたしのきもちはおさまらなか
った。気がついたら馬乗りになってありったけの力で3人を代わる代わるにボコ
ボコに殴っていた。
 三歳にして親が呼び出された事件である。男の子の親たちが幼稚園に抗議した
のだ。先生と親たちに囲まれ、三人に謝るように言われた。わたしはあやまらなか
った。彼らがあやまらなかったからだ。彼らは「おばけなんていってない」と先生と
親たちの前で自分たちのしたことを否定した。ひいちゃんは、わたしをかばうこと
なく、黙秘権を貫き通した。わたしが理由もなく一方的に殴ったということで、わた
しだけが悪者になり終わった。この出来事をきっかけにわたしはいじめっ子のレッ
テルを卒園まではられた。
 
 人なんか誰も信じられない。うそつきだ。信じるもんか。幼稚園児にしてすでにそ
う思った。その不信感はいまもなお続いてる。
 「私を信じてください。」という人間がいちばん信じられない。そういう人に限って
すぐ裏切るからだ。「人は信じられない」という人のほうがよっぽど信じられる。
「私は嘘をついたことがありません」と平気で言う人ほど、嘘つきなのと同じ原理で
ある。

 ひいちゃんの顔は左から半分がおいわさんのようにどすぐろい赤アザでおおわ
れていた。わたしにも生まれつき左手にアザがあった。そしてさらに無数のいぼが
手の甲の節ぶしにできていた。それはあずきの半分くらいの突出した巨大いぼだ
った。わたしは「いぼがえる」といつも男の子たちに言われた。おゆうぎ会では、
「きもちわるい。うつる。」といわれ手をつないでもらえなかった。いぼを取るために
毎日お灸をすえられた。お灸は熱くて痛くて拷問にしか思えなかった。
ひいちゃんとはその後六歳までの三年間、幼稚園で一緒に過ごした。卒園間近に
父が言った。「あざをきれいにとるレーザーというものが日本でも開発された。
その左手のあざをきれいにとることができるよ。」わたしはこのままでいいと断った。
「ひいちゃんはその手術うける?」「大丈夫、きっとうけるよ」父にそう言われて妙に
安心した。その後わたしたちは別々の小学校に入り二度と会うことはなかった。

 子どもという生き物は残酷である。みたまま、ありのままを口に出す。おかしい容
姿はおかしい。気持ち悪いものは気持ち悪いとはっきり言う。 ひいちゃんはおい
わさんみたいで、わたしはいぼいぼでほんとうに、気持ち悪かったんだと思う。
わたしたちみたいに気持ち悪いと言われ続けてきた子は、毎日が生きにくい。
気持ち悪いとかきたないとか、言われることには慣れてるつもりでも、無性に腹が
たつときがある。そして堪忍袋の緒が切れたとき、ものすごく攻撃的になる。
でも結局、手を出した自分だけが悪者になる。何を言われても、我慢して耐える
ことしかしなかったひいちゃんを、わたしは見習わなければいけなかったのだろうか。
ひいちゃんをおばけと言い、わたしをいぼがえると言ったやつらのことは、今もはっ
きり覚えている。でも彼らはきっと忘れているだろう。いじめられた者はいじめたやつら
を一生忘れない。いじめた側はいじめたことなんか忘れてる。そんなものである。

 お灸のおかげでわたしの醜いいぼはあと方もなく消えてくれた。左手のアザは
今も残っている。その後取り去る機会はいくらでもあったが、残したまま生きている。
ひいちゃんはどうしただろう。顔のアザはきれいになっただろうか。 


第4章  摂食障害

 わたしはいわゆる、学歴社会、スパルタ教育という環境のもとにどっぷりつかって
生きてきた。良い学校に入学し、良い会社に入社し、学歴のある良い人と結婚する。
社会がこれらを美徳としていた。
 つまり良いとされていることが全て正しく、良くないことは全て悪なのである。しかし
わたしには、この良いことがどうしても悪いことにしか見えなくて、良くないことがす
ばらしく良いものに見えていた。「黒いカラスが白いカラスにしか見えない」理論である。
 万人には黒いカラスに見えるのに、どの角度から眺めてみてもわたしには白いカ
ラスにしか見えない。悲惨なことである。「頭がおかしい。狂っている。」
と言われる訳だ。ほんとうに生きにくかった。訂正する。今もなお、生きにくい。

 そんな訳で、わたしは一個人の感情も人格も無視されて、ただ頭脳明晰な人間
を育成すべく英才教育という名のもとのスパルタ教育を、受けさせられてきた。
 英才教育の原点はまず「食」である。栄養のバランスを考え、一日30品目ならず
40品目は食べさせられた。小鉢は毎食10皿は並ぶ。365日続いたら、これはもう
拷問の世界だった。
 わたしは先天的に虚弱体質で胃腸も弱く、胃も小さく、極度に食べれない子だった。
食べることが何よりも嫌いだった。
 小学校の給食は、毎日ほとんど、からの皿。食べられるものが何もなかった。
お肉だめ、魚だめ、野菜だめ、牛乳だめ、全部だめ。給食当番には
「何もつけないで!!」といつも言っていた。

 そして13歳、ついに摂食障害。食べることを心と体が完全に拒否した。何も食べ
られなくなった。唯一、口にできたのは体に良くないと禁止され続けてきた炭酸飲料水
とスナック菓子、そして菓子パンだった。内緒で買いあさった。
拒食症、過食症。この繰り返しだった。
貧血でいつも朝礼では倒れていた。立っているのがやっとだった。
まともな思考も感情も、もはや無かった。

 生まれてすぐの英才教育は「食」だけではおさまらなかった。
ピアノ教室・絵画教室・書道教室・バレエ教室(踊りのバレエ)・学習塾・
水泳教室・児童会館での科学実験教室・プラネタリウムでの春夏秋冬年4回の
天体観測・毎週1回の図書館通いで週3冊の本を読む義務・年2回のクラッシ
ック音楽鑑賞・美術館巡り・・・・ささいな行事、日課は記載しきれない。
 敷かれたレールの上をわたしはただただ、歩き続けた。そこにはわたしの意思も
感情も何もなかった。人間とは不思議な生き物である。どんなに過酷でも悲惨でも、
慣れればなんとかなるものである。こなしていけるものである。
 しかし10歳にしてついに切れた。人間やって10年目にして切れた。
脳のシナプスが、プツプツと音を立てて切れ始めたのである。
精神が崩壊した。
わたしという人間が終わった。

                      次章へ続く